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下記の文章は、平成30年12月19日になくなった父の通夜の席で、私が喪主として挨拶した言葉です。(この通りに話せたかどうかは自信がありませんが)
ご案内のとおり、12月19日になくなりましたが、ほとんどの方が父のことを 知らないと思いますので、簡単に紹介させていただきます。
父は大正13年8月16日、小千谷市(旧山古志村)に生まれました。
小千谷市といっても山古志村に隣接しており、棚田の広がる地域です。私の小さい頃は、桶屋を営んでおり、風呂桶等を作っていました。屋号も「桶屋」です。そこにあるお棺の中の「おひつ」も父が作ったものであり、母が亡くなったときこちらに持ってきたものです。母との新婚時代はそれを使って食事をしていたようでした。
しかし、プラスチックの製品が出回るようになると桶屋も衰退し、次第に仕事も少なくなっていったようです。丁度その頃部落内で農家を営んでいた方が、引っ越すこととなったため、その方の田畑を購入し、その後は、錦鯉を飼って生計を立てていました。
2000年(平成12年)に母が亡くなり、1人にしておく訳にもいかないので、水原に連れてくることになりました。小さい頃足を悪くして障害者でもあり、最初はケアハウス シンパシー、平成27年10月からは特別養護老人ホーム シンパシーに入っていました。シンパシーの方々には大変お世話になりました。深く感謝申し上げます。
高齢の割にはそこで元気に暮らしていたのですが、先月28日に誤嚥性肺炎ということで、あがの市民病院に入院し、最後は食事を取れなくなり19日に死亡した次第です。
父との関係はいろいろありましたが、仕事の途中で様子を見に行き、帰り際に「仕事があるので帰るけど、又来るよ」といったことに対し返ってきた言葉が「おおご苦労」、「よした」「よした」です。
「おおご苦労」は中越弁で「ご苦労さん」、「よした」「よした」は、「よくやった」「よくやった」という意味です。
私のことをほめなかった父ですが、初めて認められた気がしました。また、死亡診断書の死因は「肺炎」となっていますが、医師からは「いわゆる老衰ですね」といわれ、私は天寿を全うしたものと思っていますし、父も満足しているのではないかと思います。
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